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■Lucyみさおの逃亡日記番外編ベトナム・ハノイ-サパ編 NO:15 牧歌■ |
幸い帰りも同じバスで、荷物は背負わずにすんだ。
ほっとしてツアーの皆と共にバンフォー村へと続く道を歩き始める。 バックハーの町を少し離れると、そこはもう何もない農村地帯。少し歩けば、切り開かれた山とその合間に棚田が広がる。 美しい、あまりにも美しい風景。 鮮やかな緑の山と田畑を背景に、ところどころで、美しい衣装を身にまとった子供達が鍬を持ち、畑を耕す。水牛の背に乗り、その首につけたチリリン、チリリンという音とともに行き来する。小さな子供はその傍らできゃっきゃと遊んでいる。 カゴを背負った老人、藁を手になにやら楽しそうに散歩をする少年、水牛を引く少女、鶏を相手に遊ぶ幼児、そして、山道の脇に座り、眼下に広がる棚田を眺めながら草笛を吹く少女たち。 決してなだらかとはいえない山道を、時折立ち止まっては写真を撮り、ツアーの一行に遅れる度に走って追いつき、息を切らせて歩く。コートもカットソーも必要ない。歩くたびに、一枚、一枚と上着を脱ぎ、最後はTシャツ一枚で汗ばむほど。 サパから車でわずか3時間、北東に110kmほど移動しただけで、これほど風景が変る。同じ国境付近の山岳地帯なのに、これほど気候が違う。山の民は地図で見ると、小さなエリアに密集しているかのように思える。しかし、その小さなエリアでこれほど環境が変るのならばその暮らしぶりも大きく変って当然だ。 サパで出会った黒モン族の子供と、ここバンフォーで見る花モン族の子供達。その暮らし方はもちろん、性質までもまったく違う。 サパの黒モン族の子供は、観光客慣れしていた。人なつっこく、商売も上手い。それはサパ近郊に暮らす少数民族が受けた歴史の波の影響によるものだ。 バンフォーの子供達は、写真を撮られることを好まない。小さな子供にカメラを向けると、自身の両手を顔の前に広げ、隠す。時折、大きな子供が、まるでカメラから隠すように、小さな子供を抱える。小さなみやげ物屋すらないこの農村は、静かに、穏やかに、自分達の美しく牧歌的な暮らしを守り続けている。 二時間のトレッキングを終え、バックハーのカフェに戻ってきた。少し休憩をして来たときと同じバスに乗り込む。この後、ラオカイに向かい、そこで夕食をとった後、夜10時の列車に乗り、またあの喧騒の町、ハノイに戻る。私の小さなリュックはちょこんと運転席の後ろに鎮座している。 よしよし、おりこうさん。 少しほっとした気持ちで、私は来たときと同じ一人がけのシートに腰をおろし、撮影した画像を一枚一枚、カメラの画面で確認していた。 「おい、そのボタン押したら、写真全部消せるぞ。」 頭の上の方から声がする。 「何をぬかしとんねん?」 顔を上げてにらみつけたそこには、ドしゃべりタランティーノのにやけた顔があった。 ■モン族■ もともとモン族は、中国雲南に暮らしていました。 中国ではミャオ族と呼ばれています。 こちらの衣装もとても美しいものです。 現在ベトナム北部に暮らすモン族は、18世紀末〜19世紀はじめ、清朝の頃、官と漢族による、少数民族への差別圧迫によって、南下してきた人々です。 その後、北ベトナム、ラオス、タイなどに広く暮らすことになったモン族は、インドシナ戦争において、フランスや米国などの大国との関わりの中、前線に立つ戦闘部隊として戦わざるを得なくなります。 この時、米国主導で組織されたモン特殊攻撃部隊の存在が無ければ第二次インドシナ戦争における米軍犠牲者の数は5倍以上に膨れ上がったのではないかと言われています。 戦争後、ラオスやベトナムから米国など西洋の国に亡命した人は16万人にのぼり、難民キャンプを経由して、多くの国に定住しています。 NO:16 ドしゃべりタランティーノ |
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